認知的不協和が歪める秘境の価値 【私を喜ばせる場所】
有名な観光地をめぐる旅を続けていると、その反動であまり人が行かないところに行きたくなる。
そうした思いが募った一部の旅行者は、いつしか「秘境」に憧憬の念を抱く。
では、秘境とはどんな場所を指すのか。具体的に考えてみたい。
まず最初の条件は、アクセスが面倒だということ。飛行機を数便乗り継ぎ、最寄りの都市に降り立ってからも現地交通機関に長く揺られるため、休暇が短いと無理だ。そして道のりは険しく、悪路や乗り物の故障による足止めも頻繁なので、体力に不安がある人も断念するはず。
まだ不十分だ。
ヒマで元気な人がちょっと我慢したくらいで辿り着ける場所を秘境と呼ぶわけにはいかない。もう少し厳しくし、途中で一般の移動手段が途切れて四輪駆動車や漁船のチャーターが必須としよう。航空券代の他にも相当な額の金がかかるのだ。つまり「時間」、「金」、「体力」のすべてが不可欠になる。
秘境を秘境たらしめる要因は、これら3つを同時に満たす人生のステージは皆無というトリレンマだ。即ち、若者のうちは体力と自由な時間に恵まれていても貧乏だし、中年を迎え少しは金に余裕が生まれると今度は多忙で、老齢に至りやっと時間と金にゆとりができた頃には衰弱している。私も3つどころか2つ揃うのも稀で当然、秘境は未訪問だ。
ただ、旅を続けていれば秘境に行った人と出会う機会はある。「どうでした?」と問うと、誰もが絶賛し、過酷さを語ることはあっても「あんなところ2度と行くか」などとは言わない。
よって、いつも羨ましく思う半面、好意的な意見に偏りすぎでは…との疑念も生じる。本当にそんなによいのか?
ここで仮に、秘境が予想と違い退屈で、見込み外れなら、旅行者の心理状態はどう動くかを考えてみる。
時間と金と体力が必要な以上、彼らは既にいろいろな意味で高いコストを支払い済みだ。だからこそ相応のリターンを望む。
それなのに、いざ来てみると「こんなはずじゃなかった」という光景が広がっていたら…理想と現実の違いにとまどい、不快になると推察できる(認知的不協和)。
こんなとき人間は現実の方を理想へと近づけて、両者のギャップを解消しようともがく。やがて、ここまでしたからには絶対に素敵な場所だと自分に言い聞かせ、最後は本当にそう信じ込む。
類似の例として、被験者に2杯のワインの片方は値段が高く、もう片方は安いとウソの情報を伝えて、試飲の感想を聞くと、偽りの価格と味の評定が連動するらしい。
また、体調が悪くて病院へ駆け込んだ際、ものの数分で「マラリアだ」と断ずる医者よりは、散々あれこれ調べて「おそらくマラリアだ」と告げる医者の方が信頼できそうだ。単に後者が未熟なだけでも。
どうも人間は、知識がなかったり基準が曖昧な状態で何かを評価するとき、手近なとっかかりとして費やされた時間や金、労力で判断し、無価値の物や無能の者を有難がるようだ。動物の世界でも、孔雀のオスの長い羽は邪魔なうえに外敵に狙われやすいのに、メスは自分に捧げられた進化の努力に報いるかの如く彼らの美しさに魅かれる(コストリーシグナリング ※諸説あり)。
日本の会社がいまだに長時間残業を好むのも同じ理由だ。もっともこの場合は、「周りの人よりも先に帰るな」という同調圧力への屈服が肝要と考えるべきか。長い休暇ももちろん取れず、多くの日本人旅行者にとって秘境への旅などもってのほか。
で、その秘境の価値も投下コストに左右されるんだった。
蓋し、思い込み次第という傾向は旅については好都合だ。偽薬を本物の薬だと認識して飲めば(マラリアはともかく)有効なこともあるように、自分をうまく騙せば、どんな場所でも秘境に負けず劣らず楽しめるだろうから。
そもそも日本と秘境の往復に四苦八苦するのなら、秘境に住む人たちが日本に来て戻るのもまた厄介なはずで、あちらにすれば東の果てのこちらこそ秘境ともいえる。最近でこそ近隣諸国の人々に「物価が安くて旅がしやすい」と好評な我が国も、世界の大半の方々にとってはまだまだ来訪が難しい。
この瞬間、自分と全く同じ地点には誰も存在せず、かつ万物は流転するのだから、実は常に全員がその人にしかできない貴重な体験を得ている。季節の僅かな変化に目をとめ、ふとした風景を愛おしむ意識を持てば、日常が秘境旅行のようなもの…。
と無理やり信じ込む一方、新鮮な鑑賞力に欠ける私にしてみれば、遠く離れた場所へ移って周囲の環境をそっくり入れ替えて初めて満足が得られるとも感じる。自分は動かなくても勝手に向こうから何かがやってくる世界に身を置くのが、やはり手っ取り早い。
旅が叶わぬ日々のなか、紙パックの格安ワインで酔いつつ、いつかは秘境を訪れてみたいと改めて思った。